翠玉の鎮魂歌、1

 降り注ぐ光が眩しい。

 久しぶりに、こんなにも青い空を見た気がする。



 光を腕で遮りながら、どこまでも続く青い空に目を向けた。
 昔、まだ自分が幼かった頃には、こうしてよく空を眺めていたものだった。まるで無限の可能性の象徴であるかのようなどこまでも続く空を見ながら、自分がどんな大人になるのか、これからどんな未来が訪れるのか、そんなことを考えながら、胸を騒がしていたものだった。
 だが。
 ため息が自然と口から零れ落ちた。
 そんな未来に夢馳せていた時代などとうに過ぎ去っている。もう数十年も昔のことだ。そして、実際に、その未来が訪れてみると何でもない、子供の時から続いてきた時間の延長でしかなかった。
 何かをしようしようと思いながら、結局無為に時間を過ごして、今に至ってしまっていることに愕然となる。
 私は今まで一体何をやっていたのだろうか。

「今日は、いい天気ですね」
 いつの間にか、隣に黒い服をまとった男が立っていて、私と同じように青空を仰いでいた。
 黒い服はサイファ評議会評議長だけが着ることが許された名誉あるもの。自分よりもいくつか年下のその男は、数年ほど前にガアチウルグ長を経て評議長に選ばれた。名前は確かナガツキといったはずだ。
 あまりの出世の速さと、武術や仕事面での完璧さに裏ではあれだこれだと噂の囁かれている議長ではあったが、やはり議長に選ばれただけのことがあって仕事そのものは優秀だった。冷静な判断力と実行力を持ち、また、時には人をあっといわせるような案を通す大胆さも合わせ持っていた。
 そんな完璧な男は、やはりその自信の表れか、ぴんと背筋を伸ばし誇らしげにその服を纏っていた。それを見て、ああ、私とは生きる理由も、生き方も全く違うのだ、と思う。
「最近は雨続きでしたからね。だから、余計に気持ちがいい。こんな日はきっと良いことがありますよ」
「そうでしょうか?」
 彼は答えを口にするかわりに、その顔に人懐こい笑みを浮かべた。

 良いことなどそうそうあるものではない。きっと今日も昨日の延長上だ。

 私は議長と別れると、再び暇を持て余し始めた。
 人々が行き交う大通り。訓練しようと訓練用の道具を片手に訓練所に向かう人。買い物をするために袋を下げて歩いている人。また、その買い物帰りの人。楽しそうにしゃべりながら、港の方へと歩いて行く若い男女の姿もあった。恐らく、デートなのだろう。
 私は、イムの像の前に腰を下ろして、そんなふうに行き交う人々を観察しながら、口元を微かに緩ませた。
 おだやかな時間の流れに身をそっと委ねると安心する。残された余生をこうして過ごすのもきっとそんなに悪いことではないだろう。
 だが。と何度自問自答したか分からない問いをまた繰り返した。
 一体、自分はこれまでの人生の中で何をしてきただろう。何が出来ただろう。元来の怠け者ということが祟って、恋人ができるも、相手に愛想を尽かされて、相次いで失恋。そうだ、昔から仕事や訓練なんぞよりも、人と話したり、こうして人を眺めているのが好きだった。今も仕事せずにこうしているではないか。
 日々をのんべんだらりと暮らしながら、しかし、形にならない何かに焦燥し、悲しさや寂しさに苛まれながら、時には自分とは生き方の違う人々に嫉妬し、そしてそう思いながらも何もしない自分を嫌悪し、しかし結局その何かを諦めてしまう。
 そんな折だった。弟が16歳の若さで逝ってしまったのは。まだ若かった弟。その昔、夢や未来を嬉しそうに語っていた弟。毎日をだらだらと生きていた自分とは違い、未来への展望をその胸に抱いていた筈なのに。
 しかし、ワクトはそんな弟の夢をあっけなく奪ってしまった。
 それなのに、何もしていない自分が、何故、今こうして長い時を生き長らえているというのだ?
 ワクトも、弟ではなく私を召してくれれば、良かったものを。
 それとも、これはそのワクトが自分に与えた罰とでも言うのだろうか?
「…いかんな、年を取ってからは、こんなことばかり考えてしまう」
 やめよう。そして、また今日もここで人の流れに身を委ねよう。結局のところ、この年齢になるとどんなに焦っていても、昨日の今日であることが一番落ち着いてしまうのだ。

「いつもここにいらっしゃいますわね」
 港のほうをぼうっと見つめていたら、いつの間にか、その反対側、アイシャ湖側のほうに艶やかな黒髪の女性が立っていて、笑顔で私のほうを覗きこんでいた。
「君は?」
 躊躇いがちに訊ねた。
「私はプエルトと申します。名前はリサネーラです。はじめまして、コブラ・リードさん」
 訊ねると、はきはきとした声で彼女は返事をかえした。
「なぜ、名前を」
「あら、だって、けっこう有名ですのよ。いつもイムの像の前でひなたぼっこしている人がいるって」
 彼女はくすくすと笑った。
 そうなのか、と私は心の中で驚いた。しかし、それはそう、当たり前のことなのだろう。所帯も持たず、毎日のようにぶらぶらしている老いた男など、人々にとっては好奇の的だ。
「今日は私もご一緒させていただいても構いません?」
「え?」
 そういって、彼女は私の返答を待たずに隣に腰を下ろした。その瞬間、ふわりと何かの芳香が私の鼻へと届いた。ああ、これはラフィアの花の香りだ。
「今日はいいお天気ですね。こんな日はきっと良いことがありますわ」
「そうだな…」
 さっきの議長と全く同じことを言っている、と思わずくすりと笑ってしまった。
「あら、私、変な事いいまして?」
 彼女が少し眉根を寄せた怒ったような顔で私の顔を覗き込んだ。
「いや、ごめん。さっき、議長に全く同じことを言われてね」
「同じこと?」
「いい天気だから、良いことがありますよって」
「まあ! さすがは、ナガツキ議長」
 彼女は面白そうに笑った。彼女は笑うと気が強そうな毅然とした顔が途端に幼く、少女のような顔になる。なかなか魅力的だった。
「噂の絶えない議長さんですけれど、私は嫌いじゃありませんわ」
「ああ、僕もだ」
 口元が緩むのを確認して、私は再び目線を道行く人々へと移した。
 いつも見ている風景が、ほんの少しだけ変化した気がした。

 その後、私達はそんな人々を横目に他愛もない世間話をした。誰々がリーグで全勝していること。噂の議長さんに孫が誕生したということ。自分のこと。プエルトさんのこと。
 身振り手振りを交えて話した。自分のありったけの魅力をぶつけるように彼女にアピールした。それは、まるで、最初に恋に落ちた少年の時のようで、少々恥ずかしかった。
「ふふ、お噂通りの面白い方ですのね」
 リサネーラはそう言って、また少女のような笑みを浮かべた。よく笑ってくれる女性だな、と思った。
 良いことがあるというのも、満更でもない気がしてきた。こんなふうに若い女性――彼女も既に13歳に近かったが、私にとっては充分若い部類だ――と会話ができることが、充分に良いことなのだと。しかし、それはさすがに言葉にすることは憚られて、黙ってはいたのだが。
「やはり、今日は良い日になりました。こうやって、リードさんとゆっくりとお話ができた」
 同じことを考えていたのかと驚いて彼女を見つめると、彼女はふんわりと微笑んでいた。
「こうやって朝から昼へそして夜へとゆっくりと移り変わっていく風景を眺めていることも、決して悪いことではありませんのね。私はいつもせかせかしているから、周りの変化にも、何にも気付かずに一日を終えてしまうことが多くて、それが最近になって勿体無いと思っていたんです。それで、いつも景色を楽しんでいるリードさんに声をかけようとずっと思っていたんですの」
「そんな大層なものではないよ。僕はすることがないからここにいるだけで」
「リードさんは、仕事がお嫌い?」
「あんまり好きではないかな。どちらかというと仕事場へも友人とおしゃべりするために行っているようなものだし。君は好きそうな感じがするね」
 そう訊ねると、彼女は胸を張って答えた。ああ、やはりそういう女性なのだな、と思う。きっと彼女は議長と同じタイプの人だ。
「ええ、好きですわ。だけど、リードさん。先ほどすることがないからここにいると卑下したようにおっしゃいましたけど、別にそれはそれでいいのではありません?」
「え?」
「いいじゃないですか。それでも。生き方なんてそれぞれですわ。議長のように生きる人もいれば、リードさんのような人もいる。この国は誰もがあるがままに自由な生き方ができるところが素晴らしいと思ってますの。だから、私はリードさんのような生き方、決して悪くはないと思ってますのよ。おしゃべりも上手ですし」
 昔、遠い昔に誰かにそう言われた気がする。それは誰だったろう。
 ああ、母だ。昔、母にそう言われた気がする。誰かの真似ではない。自分自身の人生を歩んでいってほしいと。それはこんな生き方でもいいのだろうか。毎日をのんびりと過ごす、そんな生き方でも。人としゃべって、笑って、時には悲しんだり、怒ったり。そんな生き方でも。
「君はそう思ってくれるのかい?」
「はい。私には決してできない生き方ですもの。いけませんね、いつも考えるのは仕事のことばかり」
「君の言い方を借りるならそれも悪くないことだと思うよ」
 それはそうですよね、と彼女は笑顔で頷いた。
 そういうものなのか。ふと心が軽くなった。今更だったが、他人から改めて言われてみると、違うものなのだと思った。
「しかし、こんな老いた男に興味を持つなんて、君も不思議な人だね。もっと若い人で仕事もできて武術のできる人もたくさんいるだろうに」
「…リードさんは、自分のことを知らなさすぎるのですわ」
「ん?」
 彼女の呟きは私には届いていなかった。
「なんでもありません。またご一緒させて頂いてもよろしいですか?」
「僕でよかったら、いつでも」

 一体全体、彼女は自分の何処を気に入ったというのだろう。
 あれから幾度となく、私――コブラ・リードと彼女――リサネーラ・プエルトは日々話をし、それはいつしかデートという形となり、どちらからともなく告白して恋人という関係となり、ほどなくして私のほうから求婚し、婚約にするに至った。
 自分が結婚するなんて、少し前では考えられなかったことだ。結局、変化を渇望し、しかし一番変化を怖がっていたのは自分自身なのだから。
 30間近になって初めての結婚。子供は望めないかもしれないが、それでも良かった。リサネーラは私と必要としてくれたのなら、私もそれにこたえて生きてみよう、そう思ったのだ。

 結婚式には、今となっては唯一の身内である私の妹セダや、リサネーラの兄弟達。そして親しい友人達、あの議長も参列し、祝福してくれた。
「おめでとうございます。リードさん」
「まさかあなたまで祝福して下さるとは…」
「私はそんなふうに恐縮されるような大層な人間ではありませんよ」
「そんなことは…」
「ああ、そうだ」
 議長はそう言うと、懐から何かを取り出した。
「これを、あなた方に。私からの祝福の品とでも思って下さい」
 そういって手渡された石は、翠色の不思議な輝きを放っていた。聖なる瞳かと思ったが、この石は透明で、奥が透けて自分の手のひらが見えるからどうも違うようだ。
「これは?」
「異国の石です。幸せを呼びこむと言われています」
「素敵な品物をどうもありがとうございます」
 リサネーラが、そう言って頭を下げると、議長はまたあの時の人懐こい笑みを浮かべた。
「お二人とも、幸せになって下さいね」

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