リサネーラは結婚してからは私のことを「あなた」と呼んだ。幼い頃から夫となる人をそう呼ぶのが夢だったそうだ。しっかりしてて気が強いと思っていた彼女の意外な一面を見て、実際には繊細で女性らしい人かもしれないと思った。 そして、やはり仕事が好きな彼女は毎日一生懸命に仕事に励んでいた。夢はウルグ長になることだと私に語ってくれた。 私はといえば、そんなリサネーラに差し入れをいれにいくことのほうが多くはあるが、彼女に触発されているのか最近は仕事場に顔を出すことが前よりも増えた。 「最近よく見かけますね。年下の奥さんを貰ってから、随分と活発な気がしますが」 一緒の職場の長年来―それでもいくつか年下だったが―の同僚がそんなふうにからかってから、私を小突いた。 「よしてくれよ」 「でも、それはともかく、本当に良かったと思ってますよ」 「何がだ?」 「勿論リサちゃんとのことですよ。コブラさん、ずっと生きがいのようなものを探していたでしょう。彼女がそうなってくれたのでは?」 意外に鋭いと思った。もしかしたら、思っていた以上に自分を見ていてくれたのだろうか。これまでは自分に余裕がなくて、そんな周りの様子に気づけなかっただけかもしれない。 だとしたら、今まではとても勿体無いことをしたと、これからはもっと大切にしよう、そう思った。 それから、望めないと思っていた私達の間に子供が誕生したのは、あの結婚式から丁度1年後のことだった。 誕生したのは男の子で、私達はその一人きりの息子にコマンチと名付けた。 コマンチは育ってくると私よりもリサネーラのほうに面差しが似ていることが判明した。そして、頭の良い利発な子供だということも。そこもリサネーラとよく似ていた。そして、やはりというべきか息子は私といるよりもリサネーラと一緒にいることを好んだ。彼女とのほうが話が合うのだそうだ。 少し淋しくはあったが、それでも、大きくなるにつれ、私ともそれなりに会話をしてくれるようになってくれ、時には込み入った話をしながら、時には些細なことで喧嘩をしたりもした。私が大雑把であるのに対し、息子はリサネーラに似て几帳面だったからから、よくそのことで口論となったのだ。それでも、それが私には嬉しかった。 普通の人にとっては、なんでもない日々だっただろう。誰もが結婚して手に入れる日々なのだから。 けれど、私はその日々を30歳を過ぎるころになって、ようやく手に入れたのだ。 それまでの日々が嘘みたいにがらりと変わった。自分を必要とされ、必要とし、誰かにそんなふうに思われて生きることがどれだけ心豊かなことであるのか。私はその年になって、ようやく知ったのだ。 精神的な充足。生きる意味というのはこういうことをいうのではないか。 「コマンチにはたくさんの世界を見て欲しいのよ」 ふと、二人が部屋の中でそんな会話をしているのを廊下で耳に挟んだ。 「そして、広い心を手に入れて欲しいの」 「広い心?」 「そうよ。世界にはいろんな国がある。そして人がいる。いろんな考え方がある。いろんな生き方がある。それを直に触れて学んで欲しい。そしてその中で自分というものを見つけてほしい」 「それは、僕に移住を勧めているってこと?」 「…そうね。そうしてほしいのかもしれない。私の夢を、あなたに託したいの」 それを聞いた瞬間、私の頭の中が、がんがんと音を立てて揺れた。 移住してほしいだって? 移住することを夢に見ていただって? それは、私が全く聞いたことのない話だったのだ。 コマンチが自室へと戻った後に、私は部屋に一人残ったリサネーラに声をかけた。 「あら、あなた。どうなさったの?」 彼女は長い髪を掻き揚げてから、普段と何も変わらない様子で応えた。 「さっき、コマンチと話をしていた内容のことだけど」 それを言うと、リサネーラの顔色がさっと変わった。彼女は唇を噛んで、顔を背けた。 「リサ、お前、本当は移住したかったのか?」 「遠い昔の話ですわ」 彼女は静かにそう言った。 「どうして、言ってくれなかったんだ。今からだって間に合うだろう。君のためなら、僕はいつだって協力するのに!」 本心だった。リサネーラが移住してしまったら、確かに淋しいことではある。私は年齢的なこともあるし、ついていくことができないだろうから。けれど、それよりも私は彼女の夢を援助できるならそうしたかった。既に彼女の夢は私の夢でもあったのだから。 「言う必要のない話だと思ったからです。さっきも言ったでしょう。遠い昔の話なんです」 「それでも…」 そこまで言って、リサネーラが悲しそうな顔をこちらを向けているのを見て、はたと気付いた。 「もしかして、諦めなければならない理由があったのか?」 「そうです。私は体が丈夫ではないんです」 それこそ、初めて聞いた話だった。 「ごめんなさい、ずっと黙っていました。だって言ってしまったら、私と結婚してくれないかもしれないと思っていたから」 「体が弱いって、どういうふうに?」 「普通に暮らす分には何の心配もありません。ただ、普通に人に比べて免疫力が少ないんです。一回何かの病にかかったら、症状が重く、長引いてしまう。黙っていたことは謝ります。でも、どうしても言えなかった。私はずっとあなたのことを見ていました。いつも皆の中で笑っているあなたの笑顔を私に向けてもらいたくて、だから…」 告白を続ける彼女の表情がみるみる内に、くしゃくしゃに歪んでいった。いつも強く、真っ直ぐ前を見ていて、私を引っ張っていってくれている彼女の始めてみる表情に、なんともいえない気持ちになって、彼女の体を強く抱きしめた。 「責めていないよ。少し驚いただけだ。大丈夫だ、安心なさい。それを知っていたとしても僕は君と一緒になっただろうから」 リサネーラは少し体をかたくして、私に抱きしめられている。 「ごめんなさい、あなた…」 「いいんだ。こちらこそごめん」 打ち明けられた話を聞いても、何かが変わることはなかった。私のリサネーラへの気持ちは同じ。ただ、結婚して、最初に思ったとおり、実際には彼女はとても繊細な女性なのかもしれない、そう改めて思ったのだ。 それからしばらくは何事もなく日々が過ぎた。 体が弱いといっていたのに、仕事をしすぎるのは大丈夫かと思いながらもリサネーラがウルグ長を目指し、一生懸命に仕事している姿を見守った。そして、コマンチはというとあの時のリサネーラの言葉を意識しているのか、プルト以外の国にも興味を持ち始めて、独学で勉強し始めているようであった。自慢ではないが、私は勉強はからきしなので、話をされてもちんぷんかんぷんであるのだが、分からないことが出てくるとリサネーラに聞いているようであった。 「ごほっ…」 ある日の朝食の時、リサネーラが辛そうに咳をしてその場にうずくまった。コマンチが心配そうにリサネーラのほうを見ていた。 「お母さん?」 「ああ、ごめんなさいね。なんでもないのよ。風邪かしらね。ほら、コマンチ。そろそろ学舎へ向かいなさいな。遅刻してしまうわよ」 その言葉に頷いたものの、何かを感づいているのか、訝しげな表情のまま朝食を平らげると、コマンチは学舎へと向かった。 コマンチを送り出し、二人きりになったところで、私は辛そうに立っているリサネーラの傍まで寄っていった。顔を覗き込むと顔色がひどく悪かった。 「リサネーラ、まさか」 「ふふっ、さすがにあなたに隠すことはできませんね。どうか、あの子には黙っていてください。最期まで強い母親でいたい」 リサネーラは、今にも消えそうな笑みを浮かべると、やや自嘲的にそう言った。最近、プルトにある病が流行り始めているようだった。 「人は運命には逆らえない。そういうことなのでしょうね。ねえ、お願いしますわ。あなた…。どうか、どうか…」 「リサネーラ!」 そう言って、崩れ落ちかけたリサネーラの体を咄嗟に抱えると、私は寝室のベッドのほうへと運んだ。 「私がもし生きられなかったら、あなたがコマンチのこと、成人まで見守ってやってて下さい…」 「リサネーラ、そんなことをいうな」 「お願いします、お願いします、あなた…」 「…分かった。分かったから、もうしゃべるな」 「良かった…」 その安堵の笑みが私が最期に見たリサネーラの笑顔だった。 リサネーラが息を引き取ったのはそれから10日後の朝だった。まだ20という若さ。よもや、14歳も年下の妻を自分が見送ることになろうとは思わなかった。 いや、実際には彼女に体が弱いと告白されてから、想像しなかったわけではない。けれど、いくらなんでも、とそう思っていたのだ。それなのに。 リサネーラが亡くなってからというものの、再び心に空洞ができて虚ろになってしまった私は、前よりもぼんやりと毎日を過ごすようになった。 いつものように仕事場へいって彼女の姿を探しても、リサネーラはいない。 そして、夜になると、家の中で彼女を探す。しかし、やはり彼女の姿はない。 移住の夢を諦め、だったらせめてウルグ長という夢を目指し、がむしゃらに頑張ってきた彼女は志半ばで去っていってしまったのだ。かつての弟と同じように。 愛しい女性はもういない。私の生き方を「それもいいではないか」と言ってくれた女性は、もう。 私はリサネーラのその無念さを感じて泣いた。そして、そんな愛する彼女がいなくなってしまったことに更に泣いた。 周りが見えていない、何をしているかも分からない。そんな日が10日ほど続いた。 「コブラさんも辛いのは分かりますが、どうかリサネーラさんを追いかけてはいかないで下さい。そうしたらコマンチ君はどうなります?」 私の姿に見かねて声をかけてきた誰かの言葉に、私はようやく気付いたのだ。 そうだ、コマンチは。 息子はどうしているのだ。母を亡くした悲しみは同じなのだ。こんな時こそ、父である私がしっかりしなくてはいけないのに。 息子とはいつ話しただろう。思い出せない。食事の用意は? 学舎へ持っていく弁当は? 頭の中にこれまでの記憶を回転させ続けた。しかし、その中に息子の姿はない。あるのはただ、空っぽになった自分の姿だけ。空虚な周りの風景だけ。 ああ、一体、私は何をやっていたのだ! 家に帰ると、すぐさまコマンチの姿を探した。コマンチは、台所にも、いつもリサネーラと話していた小さな書斎にもおらず、自室の机で書物を開きながら静かに勉強をしていた。その様子に安堵しながら、しかし、母の死の痛みなど微塵も感じさせないその後ろ姿が、誰かとだぶって仕方がなかった。 そうだ、それはあの強く見えていたリサネーラと同じだ。 「お父さん、どうしたの?」 コマンチは私に気付くと、いつもと変わらぬ声でそう言ってから、私のほうを見つめた。じっと見つめてくるリサネーラと同じ黒い瞳も、生真面目な表情もいつもの通り。けれど、きっとそうではない。何かが変わっているはずだ。 そんな息子の姿を見ると何かが弾けて、思わず体を抱きしめると、息子は急な私の行動に驚いて、じたばたと私の腕の中でもがいた。 「ど、どうしたのさ、お父さん」 リサネーラと約束した。この子の成人まではせめて、と。この子を孤児になどさせない。成人を見届けてから、そして、できるなら、この子が結婚するまで。 しばらくしてから、何かを感じ取ってくれたのか、息子はもがくのをやめて、私の腕の中ですっぽりおさまってくれた。成長途中にある体はそれでもまだ小さかった。 そんな息子のぬくもりを感じながら、決意した。リサネーラとの約束通り、必ず、息子の成人を見届けるのだと。 それからは、今まで怠けていたことが嘘のように毎日あくせくと働いた。老体に鞭打って朝早く起きて、朝食も弁当も作った。こんなことが自分にもできたのかと心底不思議に思った。 授業参観にも顔を出した。コマンチは全問正解し、誇らしげに胸を張って帰途を歩いた。 そんな自慢の息子を成人するのを必ず見届けたかった。リサネーラの約束もあったが、何よりも私自身のために。 そうして、強く願い、私は――生きたのだ。 : 窓から降り注いでくる光が眩しい。 ああ、そういえば。 あの日も、こんな清々しいまでに晴れ上がった日だったことを思い出す。 変化を望んでいたあの日。変化を望みながら、これ以上の変化を恐怖していたあの日。リサネーラとであった日。生きる目的を見つけたあの日。 この36年という私が生きた長い長い年月は一体私に何を授けてくれたろう。 弟などは私の半分以下の若さでこの世を去っている。私などとは違い、夢も希望もその胸にあったというのに、志半ばで命が潰え、さぞかし無念だったことだろう。そんな弟のかわりに私を召してくれれば良かったものをと心の中で自分を嘲笑ったのも今では過去のことだ。もちろん、今でもその気持ちはそれほど風化しているわけではない。 けれど、私にも大切なものができた。私を生かしてくれた、必要としてくれた者達が。 そんな人たちのために私は生きた。それを胸を張っても構わぬだろう。 リサネーラ、そして、コマンチ。お前達と出会えたことが私にとっての全てだった。 ありがとう―― : さあ、私達は彼に歌を唄いましょう それは心地の良い翠色の眠りの唄。 安息の唄。 さあ、お眠りなさい。 さあ、お休みなさい。 そして、石達は唄い続ける。 唄は朝に目覚め、昼に合唱となり、そして夜を越えていく。 夜が明けると、再び目覚め、物語は続く。 さあ、目覚めなさい。 これは翠色の目覚めの唄。 少年よ、目覚めなさい。 |