翠玉の鎮魂歌、3

「明日、デートしようか?」
 仕事に向かおうと玄関を出た妻を呼び止めて、そんなふうに声をかけると、妻は驚いた顔で僕のほうを振り返った。それは確かにそうかもしれない。妻の方からはよくデートに誘われていたが、僕のほうから提案するのは初めてだったからだ。
「あなた、どうしたの、急に」
 妻はそう言って、どこか訝しげに不思議そうな顔で僕の顔を覗き込んだ。
「たまにはいいだろうと思って」
「今までは私のほうからばかりだったのに」
「だから、いいじゃないか。偶には僕のほうから誘っても」
 そんなふうに言ってみても、妻はまだ何かを言いたげに口をもごもごさせていたが、結局、納得してくれたのか笑顔で頷いてくれた。
「いいわよ。それじゃあ、大通り南で待ち合わせましょうか」
「約束だからな」
「分かってるわよ。それじゃあ、いってきます」
 そんなふうに言った声には、少しだけ上機嫌な響きを帯びていた感じがして、妻が僕からの提案を喜んでくれたのだな、と少し安心した。
 結婚してからというものの、前に進む速度がどんどんと速くなっていっている彼女に、僕は置いてきぼりを食らわないようにするのが精一杯で、何もしてやることができなかった。そして、本当はもっと様々なものを、これからきっと僕よりも数段も上を行くであろう彼女にあげたいと思うのだけれど、今の僕に考え付いて、できることはこのくらいしかない。だから、それで喜んでくれるのなら、僕にとってそれ以上のことはなかった。
 僕は、年下だけれどもそうは見えない凛としているそんな彼女の後姿を見送ると、家の中へと戻った。
「パパ、ママはもうお仕事にいったの?」
 そんなふうに言ったのは、まだ眠たいのか眠気眼をこすっている娘だ。
「ああ、行ったよ。お前も早く学舎へ行く支度をしなさい」
「お勉強嫌い。行きたくない」
「仕方のない子だな。でも、学舎にはたくさんお友達がいるだろう?」
「うん、まあね!」
 友達という言葉にちょっとだけ胸を張る娘がいとおしくて、口元が緩んだ
「じゃあ、その子達に会うために学舎へお行き。皆、来るのを待ってるだろう。お前は人気者だものな」
 そういうと、娘はいきなり訝しげな表情で僕のほうを見た。
「なんか、パパ、変。だって、今までそんなふうに言ったことないよ。いつも、口を開けば勉強しなさいばかり」
 しかし、移り気の早い娘は次には、先の妻とよく似た上機嫌な笑みを浮かべた。そして、テーブルの上においてあったお弁当を鞄につめると、「いってきまーす!」と元気に声をあげて、僕の隣をすり抜けて外へと出ていった。家の前の通りに出たところで、すぐに娘は友人と出会って、楽しそうにおしゃべりをしながら一緒に大通りのほうへと消えていった。娘は、勉強は苦手のようだが、人好きで友人が多い。僕も妻も元来そういうタイプではないが、僕の父は人好きで有名だったので、隔世遺伝かもしれない。
 そんな二人を見届けた後、僕はようやくほっとできる。ここ僅か数日の間に思うように動かなくなった体を、やっとのことで長椅子の傍まで持ってくると、そこに倒れこむかのように体を横にした。このことをいつまで隠すことができるだろう。鋭い妻にはそろそろばれてしまうだろうな、と苦笑した。

 僕は――もう長くない。

 最初は、自分がそうなってしまったことが、信じられない気持ちだった。なぜ、どうして。疑問が次から次へと頭に浮かんだ。
 そして、次には、死を間近に控えた恐ろしさがあった。真っ白とも真っ黒ともいえる無彩色の恐怖だった。
 そして、その更に後には、たくさんの未練。
 僕は置いていかなければならないのか。まだ学舎に通う娘を残して。年下の妻を残して。
 母が僕と父を置いていってしまったように。こんなにも若く。
 後から聞いた話だが、母は体が弱かったという。何年か前に流行病がプルトの中で発生したときに真っ先にワクトに召されたのは母だった。最近またその病が流行り始めているという。結局、僕もその母と同じだったのだ。
 僕は、何をすることもできなかった。そしてこれからもできないのだ。これからどんどんと前に行く妻を追いかけていくことも。それを支えることも。娘がどんな人と恋をするのかを見届けることさえ。
 僕は懐から翠色の石を取り出した。この石は父から貰い受けたものだ。きらきらと不思議な光を放つそれをしばらく眺めた後、胸から全身からこみあげてくる何かを押し留めようと胸の上で握り締めて、ぎゅっと唇を噛んだ。
 しかし、結局、それは抑制できずに涙になって外に溢れでてしまった。

 悔しい。悔しくてたまらない。
 たまらないんだ――




 唄は夜に目覚め、朝に合唱となり、そして昼を越える。
 歌は休むことなく続けられ、物語は紡がれていく。

 これは歌の中の物語。
 さあ、目覚めなさい。
 これは翠色の目覚めの唄。


 ――パパ、パパー、起きてよ!

 ――あなた。ほら、もう朝よ。今日は、…と遊ぶ約束をしているんでしょう?
 ――ほら、起きて、?――コマンチ…?



 綺麗な歌が耳を掠めて、僕は眠りの淵から目覚めた。ゆっくりと目を開けていくと、そこに広がっていたのは学舎の風景だった。
「あ、れ?」
 体を起こして、自分の姿を確認すると、緑色の学生服を着ていた。そして、今眠っていたのは学舎の自分の席。机の上には本や鉛筆が散らばっている。窓から見える陽の位置を見ると、これから昼の刻に差し掛かる頃のようだ。
 学舎の中を見渡すと、そこには同級生達がたくさんいて、おしゃべりに花を咲かせていたり、勉強をしていたり、先ほどまでの僕のように眠りこんでいる者もいた。それは普段繰り広げられている学舎の風景そのものだった。
 けれど、なぜか違和感がある。
 なんで僕はこんなところに?
 なぜそう思うのだろう。だって、今は僕は学生なのだ。だから、僕がここにいても別に変ではないはずなのだ。
 そうだとも。
 何を不思議に思っているのだ、僕は。何もおかしいところなんてない。
 僕はそう納得して、椅子から立ち上がろうとしたところで、手に握りしめていた翠色の石のことを思い出した。よほどぎゅっと握り締めていたのか、手には石の丸い痕がついていた。変な寝方をしていたのか、それともやはり握り締めていたせいか、手が少し痺れている。
 この石は父母が当時の議長から結婚祝いで貰ったものだそうだ。僕はこの石を少し前に父から貰ってからというもの、こうしていつも身に持っている。この石は幸せを呼び込むと言われているらしいのだが、確かに持っていると不思議と安心する気がするからだ。
 そんな不思議な力を持つこの石は異国のものらしく、父母もどんな名前なのかを知らなかった。だったら自分で調べてみようかと好奇心が疼いて、博物館の本をいくつか読んでみたのだけれど、結局どの本にもこの石のことは載っていなくて分からずじまいだった。
 それを残念に思いながら、不思議なものは不思議なものでいいかもしれないと調べるのをやめた僕は、今ではこの石のことを勝手に翠玉(スイギョク)と呼んでいる。ただ単にその色からつけた呼び名だった。
「お、目覚ましたのか?」
 友人が声をかけてきた。
 そういえば、先ほどまで歌が聞こえていたような気がする。どんな歌かは忘れてしまったけれど、綺麗な歌だった。
「お前が歌ってたわけ…はないよな」
「は? 歌?」
 この友人は明るくて良い奴なのだが、声を張り上げて歌を唄うことで有名だ。あんな繊細な歌い方などするはずがない。
「なんでもないよ」
「変な奴だなあ」
 そう言って、僕はそんな友人とひとしきり話した後、もう今日で学生生活も終わりも迎えることを名残惜しく思いながら、昼からの3、4時間目の授業をいつも以上に真剣に受けた。



 母が亡くなったのは昨年の暮れだ。

 母の死はあまりにも唐突に訪れた。
 その日、学舎から帰ってくると突然父が「母が亡くなった」と言ったのだ。もちろん最初は信じられなくて、性質の悪い冗談かと思った。それまでずっと元気に仕事へも言っていたし、リーグ戦にも出ていたからだ。
 その後に見せられた、ベッドの上に寝かせられた青白い肌をした母の姿。そして、母が亡くなってから次の日の朝の葬儀の間までの時間、父から「握っていてあげなさい」と言われて握らさせられていた母の白い手。その手から、だんだんと失われていく温もり。それらを見たり感じたりしても、まだ頭の中は混乱していた。
 プルトでは人が亡くなるとすぐに巫女さんや神官様がやってきてワクト神殿で葬儀をとり行う。そして、葬儀が終わると暫くの間その亡骸をワクト神殿の中にあるナーガの館に安置し、女神ナーガがその魂をワクトの神々の元へと送り届けるのを待つ。僕達が実際に関わるのは葬儀の段階までだけれど、親戚への挨拶だとかいろんな対応に追われて瞬く間に母の死から5日という時間が過ぎた。そして、そこでようやく僕は母の死を認識できるようになったのだ。
 死というのは一体なんだろう。もし、死んでしまったら母という人格は一体どうなってしまうのか。
 僕はなるだけ鮮明に母の姿を思い描いた。黒い髪。黒い瞳。優しい笑顔。芯の強さが窺える真っ直ぐに伸びた姿勢。かつての夢を僕に語ってくれた、ウルグ長になるのだと仕事を頑張っていた、母。
 しかし、母の姿はそれから先へと進むことはない。夢の中ではしゃべっても、現実では決してしゃべることはない。そして、だんだんと思い出の中だけの存在となり、やがて姿はおぼろげとなっていき、いつかはどんな声をしていたかも忘れてしまう。
 それが死なのだ。
 突然に死の事実をつきつけられて、僕は怖くなった。
 そして、恐怖はそれだけではなかった。14も年下の母の死に打ちひしがれている父の老いた後ろ姿を見て、更に恐ろしくなったのだ。
 もし、このまま父が母の後を追って死んでしまったとしたら?
 僕は置いていかれてしまう?
 それから、しばらく眠るのが怖かった。正確にいうと、次の日の朝を迎えるのが怖かった。もし、翌朝に父を起こしに行って、父が布団の中で冷たくなっていたら。
 そんな恐ろしい想像を巡らせている自分を嫌悪した。怖かった。けれども、父だってもう34だ。いつそうなっても不思議ではなかったのだ。そんな想像と、母の体温がだんだんと冷たくなっていった感覚が蘇って、夜になると震えがとまらなかった。

 そんな恐怖をまぎらわすために、僕はいつも以上に熱心に本を読んだ。異国の本、プルトの本、これまでに読んだ本も繰り返し何度も何度も読んだ。徹夜で読んで、朝になって睡魔に襲われる羽目になり学舎を休んでしまったこともあった。
 父のほうはといえば、僕の恐ろしい想像の通りになることなどはなく、葬儀の日まではきはきしていたにも関わらず、その暫く後から、少しずつ様子が変化してきた。朝は僕よりも早く起きていたが、何をするでもなくぼうっとしてて、僕が用意した食事をたいらげて、それからまたぼんやりと日中を過ごしていたようだった。僕が話しかけても、ああ、とか、うん、と片言の返事をするだけで、目の焦点も合っておらず視線が泳いでいた。
 本のお陰かはたまた時間のお陰か、前よりも幾程か冷静さを取り戻していた僕は、そんな父の様子を眺めて、きっと父はそういうものなのだと考えた。僕には僕の乗り越え方があるように、父には父の乗り越え方があるのだろうと考えたのだ。だから、そっとしておくことに決めたのだ。
 それからしばらくの後、母の死から10日ほど経ったある日だったろうか。父が僕の部屋にやってきたのは。
 突然で、ひどく驚いたことを覚えている。そして、その後に父のとった行動にも。
 それからだった。今まで、茫然自失としていた父の目に何かが宿り、まるで母の死などなかったかのように、がむしゃらに働くようになったのは。その姿は老人のものとは思えないほどだった。
 何があったのかは分からなかったけれど、きっと父は母の死を乗り越えることができたのだ。そう思った。

 それから暫くは前のように暮らした。いや、前のようにではない。父との関係は前よりも良くなったくらいだった。たくさんのことを話した。母のこと。父のこと。学舎でのこと。勉強のことはあまり聞くことはできなかったけど、それでも僕の何倍もの年月を生きていた父の話は、なかなか興味深かった。父の人好きな部分などは尊敬も出来るようになった。正直、年老いた父をもって恥ずかしいと思ったことがないではない。けれど、僕はこの頃になって、ようやく年齢なんて、どうでもいいじゃないかと思えるようになったのだ。

 それから、また暫く経って、母のことが思い出にかわる頃だったろうか。父がある女性を連れてきたのは。
「はじめましてコマンチ君」
 そんなふうに挨拶をした茶色の髪を後ろで結った女性は13歳を迎えたばかりの、朗らかで明るい感じのする人だった。顔の造作などは全く違うが、笑った時の表情がどことなく母に似ていた。
「今度、彼女と再婚することになった」
 正直、かなり驚いた。二人の姿を何度も何度も見比べた。間もなく35歳を迎える父と、13歳になったばかりの女性。22歳差の恋人。こんな組み合わせなんて、滅多に考えられるものではなかった。
 女性はにこにこと微笑んで、時に父のほうを照れたように見ていた。そして、父もその女性の視線を受けると照れくさそうに頭を掻いていた。
 複雑な気持ちがなかったでもなかったが、二人の様子を見ているとどちらかというと女性のほうが父のほうに惚れこんでいたように思ったので、それはそれで奇特な女性だと思わないでもなかったが、母が父と結婚したようにこういう恋もあるのだろうと僕は二人を祝福した。もしかしたら、父が母の死を乗り越えられたのは彼女のお陰だったのかもしれなかった。

 再婚すると、義母はこれまでずっと一緒に暮らしてきた本当の家族のようにたちまち溶け込んだ。不思議な才能の持ち主だと思った。
 そんな特異な才能を持った義母だったが、調理は得意ではないとのことなので、食事は主に僕が担当した。義母は差し出した料理を一口食べると目を見開いて、そして次には笑顔になって何度も美味しい、美味しいと口にして、あっという間にたいらげてしまった。
「凄いわね、コマンチ君。どうやったらこんなふうに美味しくできるの?」
「説明書き通りに作っているだけですよ」
「だから、それが不思議なのよね。あたしなんて、その通りに作っても美味しくできないのに」
 褒め殺されて、いつも照れてしまう僕と、お世辞を言ってるわけではなくて純粋にそう思っているらしい義母のやりとりを見て、父はいつも横で笑っていた。ようやく母の生前と同じような光景が再び戻ってきたことに、僕はとても深く安堵し、彼女に感謝の気持ちを捧げた。

 そして、丁度その頃だ。
 父を彼女に任せてプルトの地を離れようと考えるようになったのは。
 迷いに迷って、何日間も考え続けて僕は決意を固めた。



 僕は学舎での最後の授業を終えて帰宅すると、すぐに父の部屋の前に立った。ごくりと唾を飲み込んで、戸を軽く叩いた。父がどうぞと声をかけてきて、僕は中へと入った。父の部屋は、母の個室とは違って本などはない、必要最低限なものしか置かれていない極シンプルな部屋だ。
 僕は、そんな部屋の様子を横目に震える唇をなんとか落ち着かせながらすぐに要件を切り出した。
「お父さん。移住してもいいかな?」
 父は、僕の急な提案にただただ驚くばかりだった。
「どうしてだ?」
「プルト以外の国が見てみたいんだ」
「いつ?」
「できたら、成人したらすぐにでも」
「そんな。いくらなんでも、急じゃないか」
 父は信じられないと首を捻るばかりだった。
 父が、何を言おうとしているかはなんとなく想像がついた。父はどんなふうに考えても先が長いとはいえない。だから最期の時まで、傍にいてほしい。きっと、そう願っているのだ。
 そして、多分僕がそうしてくれるとずっと信じていただけに、僕のこの言葉が父へ与えた衝撃は大きかったろう、と思う。
 しかし、僕はどう言えば父が認めてくれるか知っている。僕は卑怯だ。もちろん罪悪感もある、だがその一方でなぜだか安堵が広がっていく。
「お母さんの代わりに行きたいんだ」
 そして、案の定、父はとうとう何も言えなくなり、承諾してくれた。
「分かった…」
 そう言った父は、まるで母が亡くなった時と同じようにひどく淋しそうで小さく見えた。何かがちくりと僕の胸を刺した。

2へ / 翠玉の鎮魂歌トップ / 4へ