翠玉の鎮魂歌、4

 目が覚めると、まるで眠りの延長であるかのように周りは真っ暗だった。よほど深い眠りに落ちていたのか、まだ頭のほうは覚醒しておらず思考に靄がかかっている。
 そんな深淵の眠りの中で確かに僕は夢を見ていた。
 夢の世界はもやがかかったように薄暗くて前に歩く足をすくませたが、遠くに見える一点の光が僕の目に入ると不思議と足が勝手に動きだした。その光は、ぼんやりとしていて、決して強くはない。けれど、それはとても温かく、どこか懐かしく、僕にとっての恐らく意味のあるだろう小さな光だった。
 近づいていくと光の向こうから歌が聞こえてきた。とても綺麗な歌だった。少年とも少女ともつかないくらいの高さのとても繊細な歌声だった。一体誰が歌っていたものなのだろう。

 それにしてもどうしてこんなにも暗いのだろうか。
 目だけを動かして周りを見渡した。天井、床、机。朝のままの光景だ。そして、窓から見える隣家の温かそうな灯火。
 そこにきてようやく頭がはっきりしてきて、暗い理由は夜の刻になっているからだと気付いた。
 僕はあれから長椅子の上で眠ってしまっていたのだ。そして、慌てて起き上がろうと試みたが、眠っていたのにも関わらず朝よりもまた幾分か体力をなくしている体は、言うことを聞いてくれなかった。
 無理やりに体を叩き起こそうとして、けれども、結局力が入らずに長椅子から落ちた。起き上がろうとしても、足はがくがくと震えるだけで、まったく言うことを聞いてくれなかった。
 そして、そんなふうに自分の体と悪戦苦闘している時。
 がちゃりと扉が開いた音がした。
 それと同時に、誰かが家の中へと入ってくる気配。足音は静かだ。お転婆な娘はこんなふうに静かに歩くことはないから、それが誰のものかは簡単に想像がついた。
「あなた、いないの? 仕事場にもいなかったけれど、試合を見に行っているのかしら」
 ああ、やはり妻の声だ。帰ってきたのだ。早く起きなければ、気付かれてしまう。
 それなのに、体は言うことを聞いてくれなくて。
 そして、何もできないまま、暗い部屋にぱっと明かりが灯される。光はあらゆるものの形を映していった。机も、天井も、窓も、そして、僕自身も。暗闇に慣れた目にはその光はひどく眩しかった。
「あなたっ!?」
 妻の慌てた声と、何かが落ちる音が光の灯された家の中に響いた。僕は今、人を驚かせるのに十分なひどい恰好をしているのだろうな、と頭の中の冷静な部分ぼんやりと思う。
「あなた、どうしたの!? あなた!」
 彼女の驚きの声音はやがて不安へと変わっていく。僕はそんな彼女を大丈夫だよと慰めることもできず、彼女が今にも泣きそうな顔で自分の顔を見つめているのを、焦点の合わない目で見つめ返すことだけしかできなかった。それだけで僕は精一杯だったのだ。

 最初からそうだと告げればよかったんだね。こんなふうに分かってしまうだなんて。
 結局、君を余計に不安にさせることになってしまった。
 僕はいつも後悔ばかり。
 許してくれ。

 ごめん――リヤ。




 これは幾重にも拓かれた、一つの夢物語。


 さあ、私達はその物語を紡ぎましょう。
 さあ、私達はその物語を運びましょう。


 物語は巡ると、過去へと戻る。
 そして、過去へと戻ると再び未来に向かって歩き出す。

 神の子はそれを見守っているだけ。
 人は見守られているだけ。
 それが、神の子の定め。
 人の定め。

 時間は再び巡ってくる。
 さあ、目を覚まして。

 お父さん、目を覚まして――




 翠色の何かが目の奥でちかちかと光って、僕は再び目が覚めた。

 それと同時に冬の冷たい風が頬を刺して、反射的に声がもれた。
 空を仰ぐと、澄んでいて青い。果てなどないかのようにどこまでも伸びていっていた。体に吹き付ける風は冷たいが、僕を照らしてくれる陽光は思ったよりも温かい。そして、海の向こうにはこれから僕が向かう緑の大陸がうっすらと見え始めていた。
 それは普通に生活している人がよく見る光景ではないのだろうが、ここは甲板の上であるからこんな眺めを見ることは決して珍しいことではない。
 ここは移住するために乗った船の上だ。

 そのはずなのに、この光景になぜだか違和感があった。前にもこんなことがあった気がする。いつだったかは覚えていないけれど。
 夢から覚めた後のように心と体の距離がおかしかった。体は確かにここにあるのに、心が置いてきぼりだ。実際にさきほどまで少しぼんやりとしていたのは確かなようなのだけれど。でも、僕は確か。確か――
 ――いや、おかしくはない。
 だって、僕は移住先へと向かう途中だ。
 そうだ、そうなのだ。
 納得すると今ここにいることが不自然なものでなくなってほっとする。と同時に僕は隣にいて僕を不思議そうに見つめている褐色の肌の少女の存在にようやく気付いた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもないよ」
「でも、ぼんやりしていたわ」
「どのくらい?」
「ほんの少しの間だけだったけれど。何かあった?」
「故郷のことを思い出していたんだ」
 咄嗟に出てきた説明に納得したのか、少女はふんわりと微笑んだ。僕と同じ年だというのに、とてもそうとは思えないほど大人っぽい笑顔だった。
「よく分かるわ。私もまだ体半分、故郷に置きっぱなしだから」
 長く艶やかな黒髪が風に流されて舞っていた。その髪を掻き揚げる姿も艶やかで、どきりとした。長くすらりとした手足はとても伸びやかで、知らず目を見張る。絵になる女性だと思う。とても綺麗な人だ。
 彼女の名はリヤ・ナガツキ。簡潔だけれど、ほどよく耳に残る名前だ。彼女にぴったりの名前だと思った。
 リヤとはこの船の上で知り合った。若者が少なかったこの船の上で、やっと見つけた同年代であるリヤの姿を目にしてなんとなしに声をかけたのだ。確かに彼女は美人であったので、仲良くしたい、という下心も僅かながらにあったことも否定はしないが。
 話をしているうちに、僕と彼女が同年であったり、行く先が同じであることが判明すると、互いに親近感を抱いて故郷のことや自分自身のことなど身の回りのことを話すようになった。そして、おしゃべりに花を咲かしていた時に船頭にもうすぐ移住先の大陸に着くと言われて、ならばその大陸を少し見ておこうかと船の上に出て、今に至る。
「風が強いわね」
 強い風が吹き付けて、不意に彼女がそう呟いた。すぐ傍にいたから、そう言った彼女の体が少し震えていることに気付いた。彼女に自分が被っていた毛布をかけると、彼女は驚いて僕のほうを見た。
「悪いわ。あなたが冷えてしまう」
「僕は平気だよ」
「ありがとう。でも、そろそろ中に戻りましょう。下船の準備もしなくてはいけないし」
 彼女の提案に頷きはしたものの、少しだけ残念だった。もう少し彼女と話をしたいと思ったから。



 移住した国は、プルトと似たような国だった。
 まず、武術のショルグ、仕事のウルグという組織形態が同じだった。
 そして、地理も酷似していた。西に海、東に山。ショルグやウルグの神の名前などは酷似どころではなくそっくり同じで仕事内容さえもプルトとよく似ていた。
 後で知ることだが、この国もワクト教を信仰している国だったということを聞いて、納得した。

 手続きの際にもらった地図を見て、主要な施設や仕事場などの位置を覚えた。そして、実際に訪れてどんな場所かを近くにいた人々に訊ねた。仕事が開始すると次はウルグ長に仕事の内容を一から順を追って教えてもらい、今度は手に覚えこませる。
 そんなふうにやっているうちに時間はあっという間に流れていった。新しい国ではあったけれども、故郷に似たどこか親しみのある国に僕はすぐに馴染んだ。国の形態だけはない、人々の生き方、何よりもこの国の穏やかに静かに時間が流れていくところまでがプルトと似ていると気付いたのだ。
 ここに暮らす国民のゆったりした気性は自分にぴったりで、ここで永住するのもいいかもしれない、とまだ移住してきたばかりだというのに決意を固め始めていた。

 リヤとは住む場所が離れてしまったが、ときどき道で会うと近況を報告しあっていた。時折、彼女が近所に住む男性と談笑しているのを見かけると、なんともいえない気持ちに囚われた。

「こんにちは。調子はどう?」
 頭上からの凛とした声に僕は驚いて見上げる。そこにはリヤがいた。彼女が僕の仕事場に来るなんて珍しいことだった。
「ぼちぼちかな。君は?」
「私も同じ。まあ、たくさん釣れているわね」
 魚を入れている籠を覗き込みながら、魚の数を数えている。
「雑魚ばかりだけどね」
 苦笑しながらいうと、リヤは笑った。
「でも、可愛いじゃない」
「こんなんじゃあんまり稼げないよ。次は大物を狙う」
 そう言って、気を引き締めた瞬間、手にしていたサオが引いた。もしかしたらと期待して、引張りあげたが、またその「可愛い魚」だった。がっかりしたのと、見栄をきったのにみっともないのとで、リヤと顔が合うと苦笑いをするしかなかった。彼女のほうは莫迦にするでなく、同情するでなく、会った時と同じようにただただ穏やかに微笑んでいた。まるで子供を見守る母親のような笑顔だった。
「やっぱり木のサオなんかじゃ大物はそうそう狙えないな。今日はこれまでにするよ」
 糸を巻き、そこを立ち上がる。籠を納品所に持って行って納品した後、どちらが言ったでもないのに一緒に歩き始めた。
「リヤのほうの仕事はどうだい?」
 彼女は山の仕事をしている。草木を育てて、それを採っているのだ。最初に彼女の仕事を聞いた時、世話好きの匂いのする彼女らしい職場選択だと思ったものだった。
 そして、やはり僕の問いに彼女は機嫌良く答えた。
「面白いというよりもやりがいがある仕事だわ。もう少し温かくなると、花が咲きほこるのですって」
 花と聞いて、バハの寝所に咲いていたラフィアの花を思い出す。母が好んでいた花だ。学生の時分に、仕事場に友人と遊びに行った時、母が仕事の傍らその花を家用にと摘んで、籠の中に大切そうに入れている姿を思い出した。
「花は好き?」
 なんとなしに訊ねるとリヤは大きく頷いた。
 母もそうであったが、やはり女性というのは、すべからく花好きなものであろうか。花は美しいもの。美しいものに惹かれるのは、人であれば自然なこと。それが一般的に感受性の豊かであるとされる女性ならば、なおさら。
 僕も花が嫌いではない。咲き誇る花を見ていると人並みに綺麗だと思う。家に活けてあった花を素直に美しいと思った。でも、植物もやがて枯れ、そしていつかは死がやってくる。
 少し距離を置いて歩く彼女の横顔を一瞥してから、ぽつりと呟いた。
「…君の職場に転職、しようかな」
 彼女が一転して真剣な眼差しで僕のほうを見つめた。
「なんか、違う気がしてさ。今の仕事」
「若い頃にたくさん経験を積んでおいたほうがいいともいうものね。あなたがそうしたいのなら、そうしたらいいと思うわ」
 まだ仕事をし始めてから僅かな日数しか経っていない。それなのにもう仕事場を変えるということに対して、彼女は非難するでもなく、突き放すでもなく、そっと包み込むかのような声音にとてもおだやかな気持ちになった。
「ただ、こっちの仕事も決して楽なわけではないわよ」
「分かるよ。前に見に行ったことがある」
 それに、前に母にも聞いた。恐らくプルトにおけるバハの仕事とほぼ同じだろう。母の後を追うようで嫌だったから、今の職場を選んだのだけれど、結局自分も海よりも土に触れるほうが安心できそうな気がする。
「だったらいつでもどうぞ。歓迎するわよ」
 僕がそんなふうに説明すると、彼女が笑顔で答えてくれた。笑顔を見るだけで嬉しくなるのは、彼女に恋をしているからだということを改めて自覚する。
 彼女のことを思うと、心の中が明るくなった。片想いというのは一番苦しくて、でも、その反面一番気楽な状態でもある。つかずはなれずで、互いに気遣いもできる。恋愛関係も人付き合いであることにかわりはないのだから、深く踏み込んでいくと、相手の気持ちが分からなくなったりもするだろうし、悩んだり苦しんだりで、楽しいだけではないとは思う。
 それでも、やっぱり片想いだけで終わらせたくはない。その向こう側にあるものがほしい。乗り越えたものの先にあるものがほしい。二人でいることで得られるものが欲しい。
 だから、今はこの距離がもどかしかった。

 自分の気持ちを彼女に伝えようと、次の休日に海でも見ないかと誘った。彼女はすぐに「いいわよ」と返事をしてくれた。その休日の朝に大通りで待ち合わせて、僕達は港へと向かった。港には人はなく、さざ波の音だけが僕達の耳に聞こえてきた。
「綺麗ね。向こうで暮らしていたことが懐かしいわ」
 彼女がきらきらと光る海を眺めながらそう言った。僕もそうだね、と頷いた。
 海の向こう側、プルトの大地、僕の故郷。そこでの様々なことが蘇ってきた。学舎でのこと。友人とのこと。それはほんの半年前までの出来事なのに、遠い過去に起こったもののようだ。

 ――でも。僕は何かを誤魔化している気がした。何かを忘れるようにしている気がしてならなかった。

 しかし、海を見ながら、その疑問をどこかへ無理やりおしこんで、僕は故郷のことを思っているのであろうリヤの横顔をじっと見つめた。確かに、彼女は僕と同じ気持ちを抱いている気がした。
 しばらくして、僕の視線に彼女のほうが気付いて、僕のほうを真剣な眼差しで見つめた。僕が何を言おうとしてるか、彼女の方もきっと察しがついたのだろう。
「どうしたの?」
「リヤ、僕と付き合ってくれないか」
 リヤが息を呑むのが分かった。
 一瞬の沈黙の後、リヤは顔をほころばせて頷いてくれた。
「私もあなたのことが好きだったの」

 僕達は恋人という関係になった。
 とはいっても、肩書きがそれに変わっただけで、がらりと関係が変わることはなかった。一緒にいて、一緒にたくさんのことを話した。僕も彼女も口数が多くはなかったから、それは他人から見たら沈黙のほうが多く支配している雰囲気ではあっただろうけど、僕はその沈黙が決して嫌いではなかった。沈黙の中でも、彼女は確かに何かを語っていたし、僕も静かに語っていたからだ。
 時には手を繋いだり、キスをしたり、触れ合ったりした。けれど、僕達の恋愛は全く情熱的なものではなかった。
 思っていたよりも穏やかなそれに、僕はいささか拍子抜けをしないでもなかったが、けれど、この空気は決して嫌なものではなかった。穏やかな何かが僕達を包み込んでくれた。それは温かくて、柔らかかった。僕とリヤでしか作り出せないこの空間を大事にしたいと思った。

 ――だけど、不意に僕はこの空気をかつて味わったことがある気がした。彼女と一緒にいるだけで満たされて溢れて出る何かを知っている気がした。いや、恋人になるもっと前、彼女の姿を見た瞬間に、僕はとてつもなく懐かしい気がしたのだ。
 でも、それはいったいいつ、どこで?
 結局、その疑問はすぐに記憶の奥へと隠れていく。再びちくりと何かが僕の心を刺した。

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