翠玉の鎮魂歌、5

 それからリヤとの仲は順調に進み、僕たちは結婚することになった。
 まだこの国に来てから一年も経っていなかったが、これが僕達の自然の成り行きだったのだ。まだまだ自分たちが子供ということも充分に承知していたが、二人手を合わせればきっと乗り切っていける、そう思っていた。
 友人達にこのことを報告したら、散々冷やかされた後に、ようやく祝福の言葉をもらうことができた。いつか彼らが結婚する時には、そのお返しをしたいと思う。
 友人達を大切にするようになったのはこの国にきてからだ。もともと友人と遊ぶよりも勉強ばかりしていた僕だったから、この国にきたことで自分を変えたいと思った結果だった。

 結婚式を明日に迎えた日の夕方、ざわめく心を静めようと訓練をしにいった帰りに通りを歩いていると、仕事場のほうへ向かうリヤを見かけた。もう納品所も締まる時間だというのに不思議に思い、そのリヤの跡を追って僕も仕事場へと足を踏み入れた。
 色鮮やかな花の時季を過ぎ、新緑の命溢れる時季も過ぎ、山はすっかり実りの季節に移り変わっていた。木々達は、葉を紅葉させ、たくさんの実をその身に宿し、いつもは土色の地面が色鮮やかな木の葉に埋め尽くされている。移住して間もなく訪れた花の時季は、確かにリヤの言っていた通りにとても美しかったが、この時季も同じくらいに絵になる風景だと思った。
 リヤはそんな風景の中、熟して地面へと落ちた実を手に拾いあげていた。
「リヤ?」
 彼女は、あ、と声をあげて僕のほうを見上げた。すぐにいつもの顔に戻っていたが、一瞬、その顔が不安げに映ったのは気のせいだったのだろうか。
「驚いたわ。あなたも仕事にきたの?」
「さっき、リヤが仕事場に向かうのを見えたから、追ってきた」
 リヤはそっか、と言って小さなため息をこぼした。やはりさっきの一瞬の表情は気のせいではないらしい。
「どうしたの? 結婚が不安?」
「あ、ごめんなさい。そうではないの」
 僕から目をそらすように、リヤは実を拾うのを再開して言葉を続けた。
「もちろん嬉しいわ。今、とても幸せよ。でも、それを実感するたびに胸が痛むの。罪悪感っていうのかしら」
「罪悪感?」
 リヤは、実を拾うのをやめて体を起こすと、ふぅ、と息を吐いた。
「あなたは多分変に思うでしょうけど、最近、変わった夢を見るのよ」
 彼女の瞳に陰が落ちるのを僕は見止めた。
「夢?」
「それはこんな内容なの。あなたには別に恋人がいて、彼女と一緒に笑っている。あなたより年下でまだ学校に通っている私は、あなたへの思いを胸に閉じこめてそれを眺めているだけしかできなかった。でも、大きくなった私はその気持ちを隠し通せなくて告白をして、その恋人からあなたを奪ってしまうの。確かにあなたが気持ちを受け入れてくれたのは嬉しかった。でも、一方で恋人を奪ってしまった女性のことを思うと、どうしても素直に喜べない」
 リヤは少し淋しげに笑った。
「ね、ほら、変でしょう?」
「変ってことはないけど。でも、実際には僕はリヤと同じ年だし、リヤの前に付き合った女の子もいないよ」
「あなたのこと疑ってるわけじゃないわ。だってこれは飽くまで夢の話だもの。だけど、夢の中の少女の苦しい気持ちがまるで自分のものみたいに妙に現実的で気になって」
「忘れろよ、リヤ」
 なお不安げに顔を伏せるリヤの肩を抱いて、自分に引き寄せた。
「今は、夢のことじゃなくて、僕らのこれからのことを考えよう、な?」
「そうね。ごめんなさい、変なこといって」
 リヤが僕の胸に顔を寄せてくると、愛しさで胸がいっぱいになった。これから、守らなくてはいけないものが増えていくのだ。それは不安でもあるが、喜びも大きかった。ひたすらに強くなりたいと思った。

 でも、リヤの話を聞いて、それを他人事とは思えない、寧ろ懐かしく思う自分もいた。
 確かにその光景を僕は知っている気がした。リヤと出会った時に、恋人になった時に感じた懐かしさと同じ。
 震える肩。揺れる瞳。そして、踵を返し去っていく、別れた恋人。
 リヤに言った忘れろという言葉は、自分自身への言葉だ。

 結局、その変わった夢の内容はそれっきりで、それ以上話題にあがることはなく、僕らは次の日に夫婦となった。友人等に祝福されて行われた結婚式は、素晴らしい門出となった。
 それからは、これまで以上に充実した日々が続いた。一人よりも二人。二人でいることのなんと安らかなことか。
 一年後には子供も誕生した。誕生前には、女がいいな、男がいいな、ところころ意見をかえつつ、結局のところ男でも女でもどっちでもいい、と二人で笑いながら言い合っていたのだが、なんと誕生したのはその願いがかなった男女の双子だった。男の子のほうはリヤのような褐色の肌、女の子のほうは金色の髪の肌の白い子供だった。どちらの子も僕よりもリヤのほうに顔立ちが似ていた。
 守らなくてはいけないものがまた一つ増え、更に強くならなければ、と思った。



 故郷からの手紙が僕へと届いたのはその男女の双子の子供達が誕生した年末のこと。僕が故郷を離れてから二年が経過しようとしていた頃だった。
 手紙を受け取った時、リヤは買い物に出ており、僕は一人で子供達の様子を見ながら留守番をしていた。子供達が遊び疲れて寝入った後、その手紙を読むために居間へと入った。
 手紙は白い封筒に入っており、送り名を見ると、義母からであった。
 その名前を見た瞬間に、その手紙がなぜ僕に送られてきたのか、何を僕に伝えるものか、なんとなく分かった。僕は無意識のうちに震えていた手で封を切った。封筒と同じ白い紙には義母の少し癖のある字が並んでいた。

『コマンチ様

 お久しぶりです。元気でやっていますか。病気はしていませんか。こちらでは間もなく雪が降る季節、朝夕の冷え込みが厳しくなってきました。そちらもかしら。体には充分に気をつけて下さいね。

 覚えていますか。あなたが私と初めて顔を合わせた時のことを。

 ―突然こんな話でごめんなさいね。でも、聞いて下さい。

 あなたに会う前、あの人はいつもあなたのことを話していました。年をとってから授かった子供だったから余計にでしょうけれど、自慢の息子だと顔を綻ばせていたのですよ。そして、それはあなたが国を出た後でもずっとかわりませんでした。
 頭の良い理知的な子だとずっと聞いていたから、私はあなたに会う前はずっと緊張していました。私はどちらかというとあの人と同じように感情優先で動く性質でしたから、自分はちゃんと母になれるかどうか仲良くできるかどうか心配だったのです。
 そんな中で出会ったあなたはあの人の言うとおり、とても頭が良く聡明でなんでも器用にこなすことのできる、けれど、控えめで謙虚で穏やかな子だと知りました。そして、そんなあなたと話す度、以前に感じていた不安は消し飛びました。寧ろ、あなたと過ごす日々はとても楽しいものになりました。家族三人―どうか私も家族の中に加えて下さいね―の暮らしは僅かな間だったけれど、私はあなたのことを本当の息子のように思っていました。

 恐らくこの手紙が届いた理由を勘の良いあなたは気付いているはず。
 私とあの人が出会ったように、私とあなたが出会ったように、出会いもあれば、離別もある。始まりがあれば、終わりも存在する。それは自然の理です。
 ようやく私の中の整理できたので、あなたに伝えることができます。遅れたことをどうかお許し下さい。

 私の夫、そしてあなたの父コブラが、ワクトの元へと召されたのはあなたが移住してから一年と半年の後のことでした。

 コブラが遺言を残したので、ここに記します。

『信じる道を真っ直ぐに進みなさい』

 あの人は最期にそう言って息を引き取りました。

 自分でリサネーラさんの夢を追う決意をしたあなたのことを、あの人は誇りに思っていました。自分の道を決めたことをとても嬉しく思っていました。いつかあなたの訊ねた国の話を聞きたいと笑っていました。亡くなる時も、あなたを見守る優しい眼差しを宿したままでした。苦しまず、眠るように亡くなることができたのはとても幸せなことでしょう。
 …けれど。
 本当はあなたと二人で、あの人を看取ってあげたかった。あの人の手を、あなたにも握っていてもらいたかった。
 時折、あの人は淋しい顔で空を眺めることがありました。あなたのことを思い出していたのかもしれません。老い先短い自分の傍にあなたがいてほしかったからかもしれません。これは私の憶測でしかないけれど。

 …ごめんなさいね。それももう過ぎたことです。それに、勝手にあの人の心を決めてしまうのは、結局私がそうしてほしかったという我が侭でしかないのですから。
 けれど、もう一つ我が侭を言わせて下さい。どうかあなたも祈ってて下さい。あの人の魂が、安らかに眠ることができるように。

 あなたがそちらに行ってから既に季節が二回巡ろうとしていますね。勉強は頑張っていますか。それとも、あまり想像はつかないけど、色恋に夢中になったりしているのかしら。もしそうならば、可愛い恋人はできたでしょうか。もしくは既に親になっているのかしら。もし、孫が誕生したなら、是非その子を連れて一度遊びにきて下さい。その日を楽しみにしています。

 思った以上に長くなってしまいました。この辺で筆をおこうと思います。

 あなたの幸せを遠い地から祈っています』

 読み進めていくごとに、何かが胸をちくりちくりと刺し続ける。最後まで読み終わった時、手紙は手からするりと落ちた。それを拾おうとしたけれど、手が震えて結局できなかった。

 違う。違うんだ、お父さん。

 何度も何度も頭の中でそれを警告していたのに、見てみぬふりをしてきたのは自分自身。その代償がこれだ。ずっと前から見ないようにしていたそれを目の前につきつけられて、自分がやったことがどんなことだったか改めて思い知らせた。
 義母はよほど僕のことが分かっていた。彼女は言ったのだ。出発前、僕に「後悔はしないか」と。
 移住だって? 母の願いだって?
 そんなの、父を看取った後だとて良かったのだ。プルトで勉強するべきものだってたくさんあったはずなのだ。それなのに、どうしてあんなにも早く僕が移住を決めたのか。その理由はとても簡単だ。

 僕は「終わり」から逃げたのだ。真正面から立ち向かうことをせずに、こうして義母に全てを背負わせて。

 何も考えられない。
 母の死の時よりも、更にひどい喪失感が僕を支配していた。


 それからどのくらい時間が経過したのか分からない。気がつくと、僕の傍にはリヤがいた。外に出ていたリヤがいつ戻ってきたのか分からなかった。床に落とした手紙はいつの間にか机の上に置かれていた。リヤが読んだのだろう。
「あなた…」
 リヤの声は嗚咽が混じっていた。君が泣く必要なんてないというのに。

 恐らくリヤは父の訃報に純粋に悲しんでいると思っているのだろう。もちろんそれも悲しいけれど、何より自分の心を占めているのは父が亡くなったという事実ではなく、離別から逃げた自分の罪をつきつけられたからだ。父の最期を看取れなかったことに涙しているだけだ。なんて自分勝手なのだろう。
 僕は懐の中にある翠色の石を、服の上からぎゅっと握り締めた。これは今となっては父の唯一の形見だ。

 年老いた父の笑顔がぼんやりと頭に浮かんだ。明るくて、おしゃべりで、人好きな人だった。続けてそんな父の声を思い出そうとしたけれど、それは二年という歳月の間に風化してしまっていた。
 そして、愕然とする。
 もう二度と父には会えない。

 その覚悟を決めて移住したつもりだったのに、結局僕は後悔している。

 そして、父に、義母に、リヤにも負い目を感じて、僕は生き続けるのだ。





 それからは、それを無理やり自分の中に押し込んで僕は生きた。
 止まることのない時間は僕にとっては救いだったのかもしれない。時間は父のことを思い出にし、罪の意識をやわらげてくれた。

 双子の子供達は少しずつ大きくなっていった。歩き出すようになると、毎日忙しくなったが、その忙しさが嬉しかった。子供達の成長は早く、目を見張った。こんなにも覚えが早いのかと子供というのは凄いなと素直に感心した。そうした子供達を育てるのは苦しくもあったけど、それ以上に楽しかった。
 息子も娘も外見は妻によく似ていたが、性格のほうは外見ほどに似ていたわけではなかった。娘のほうは子供らしい活発さを持った子で、友達からの人気も高いようだった。娘のその性質は、僕ら似というよりも人好きだった僕の父に似ていた。息子のほうは、少し大人びた物の見方をする子だった。どちらかというと無口で一人を好む部分があったので、そこは僕に似たのだろう。

 少し癖のある子達であったが、家庭環境は特に問題もなく、僕やリヤも普通に武術でも仕事でもそれなりに上位に上がり、順風満帆だったように思った。
 けれど、そうしたささやかな幸せの中の僕をあざ笑うかのように、子供達が学校に入学する頃、世界が歪んだ。

 この夢はここで終わるのだ。
 もう一人の自分と同じように後悔をその胸に抱いたまま。
 いとおしい子供達の成長を見届けられないまま。
 僕らの未来はやってこない。そして、子供達の未来も闇の中。
 これは僕への相応しい罰なのだろう。


 …夢?
 ああ、そうだ。これは夢なのだ。

 だって、僕は――





 さあ、こっちにおいで。


 これは翠色の鎮魂歌。
 魂の安息の歌。


 さあ、踊りましょう。
 さあ、手をとりましょう。


 一緒に歌をうたいましょう。


 さあ、こっちにおいで。

 こっちにおいで。





 その翠色の歌声が脳に響き渡った瞬間に、意識の扉が開いた。

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