翠玉の鎮魂歌、6

 そこはいつもの場所ではなかった。立っているでもない、座っているでもない、寝ているでもない、宙に浮いた感覚に、言い知れない不安という名の沁みが体中に広がっていく。
 ここはいったいどこだ。
 目だけを動かして周りを見ると、そこは靄のかかったような何もない場所だった。
 さっきの夢の続きだろうか?
 そんなふうに考えていると、突然高い声が自分に降ってきて、驚いた。
「はじめまして」
 いつの間にやら少年と思しき子供が僕を見下ろしていた。靄が僕と少年との間を邪魔して顔ははっきり見えない。けれど、黒い髪で、それを短くかっていることだけは分かった。
「君は…?」
 疑問を言葉にしてみて、ほっとした。声は出るようだ。
 しかし、少年は僕の問いには答えず、面白そうに笑っているだけだ。その笑い声が、時折聞こえていた――さっきも聞こえていた歌声とよく似ている気がする。
「ここはいったいどこなんだ?」
「石の中」
 再度質問してみると、次はちゃんと答えてくれた。それでも、やはり声音から察するにどこか面白がっているふうであったが。
「石…?」
 石というと咄嗟に思いつくのは、勝手に翠玉と名付けたあの石のことだ。
「あなたが翠玉と名付けていたあの石だよ」
「そんな、ばかな」
 そんなことが在り得るはずがない。あの石は確かに幸福を呼むなどと曰くのついたものだったし、名前の不確かな不思議なものではあったけど、結局は石は石だ。
「あんまりどうのこうのと理屈で考えない方がいいよ。世の中には不思議なことがたくさんあるから。あなたの夢の話もそうだ」
 夢、と聞いて思い出した。
 ああ、そうだ。僕はずっと夢を見ていたのだ。ならば、きっとこれもその夢の延長だ。少年はからかっているのだろう。
「きっとこれも夢だと思ってるんだろ。まあ、そっちのほうが分かりやすいだろうし、それでいいよ」
 僕を見下ろしている少年が少し呆れ気味に言う。
「あなたは二つの夢を見ていたね。覚えてる?」
 僕は頷いた。少年は面白そうに言葉を続けた。
「でも、それは夢なんかじゃない。正確にはどっちも現実だよ」
「どちらも…?」
 父の最期を看取れず後悔していた僕と、死の間際で何もできないとじたばたしている僕。
 でも、僕が二人も存在するわけがない。だって…、そうだとも。
「いや、それは違うよ。だって、父は再婚なんてせずに僕が成人したすぐ後に亡くなったし、僕も移住なんてしなかった。ぼくが結婚したリヤは同じ年の移住者じゃなくて、同じ国で生まれ育った年下の女の子だったんだ」
 そうだ、言葉で確認して、ようやく自信が持てる。僕はそちらの『僕』だ。
「じゃあ、今のあなたのほうが現実で、もう一つのほうが夢になったのさ。その夢は、貴方の未来の一つの話だ。でも、今のあなたが知っている未来が何らかの理由で勝って、もう一つの未来が夢のような話になった」
「どうして、別の未来なんかが…」
「だから、理屈で考えちゃいけないってば。この世界には、不思議なことがたくさんあるんだから」
 そこで一つため息をついて少年は続けた。少しこの少年に翻弄されているような気がして、落ち着かない。
「未来は一つじゃないんだ。ほら、何かをする時には常に選びながら生きてるだろ。未来はそのたくさんの選択肢の先にあるもののことを言う。だから、一つの現実から枝分かれした未来がその選択肢の分だけ無数に存在しているんだ。例えば、朝起きて何をするか迷うでしょ。顔を洗うか、それとも食事が先か。食事にしてもどれから食べるか。それから、家から外に出て、訓練に行くか、仕事に行くか。そんな些細なことでも変わるよ。でも、枝分かれた未来は普通は平行線を辿っているから交わることはなく、普通の人は別の未来があるってことに気づくことはほとんどない。でも、なんの奇跡か、気まぐれか。この石が、もう一つの現実をあなたに見せたんだ」
「石が…?」
「そうさ。知ってる? 長く人に触れられている物には魂が宿ることがあるってこと」
「ああ、前にどこかの本で読んだことがある」
 そういう教えのある宗教もあるようだった。あらゆる物に命や神が宿る。物にも植物にも。事象にも、物事にも。そこまで考えて、ある事実に思い当たった。いや、でも、まさか。
「まさか、本当にこの石、が?」
 そんな莫迦な。さっき言ったことは本当だというか?
 僕を見下ろしている少年の顔が周りを眺め回す。まるで石をいとおしげに撫でるように。その様子は子供のものではなかった。
「不思議だよなあ。誰から誰にどのくらいの時間をかけて渡ってきたかは分からないけど、長い年月の間に宿ったみたいだ。石も年を経て、人の心を吸いながら成長していくんだ」
「どうして、君はそんなことが分かるんだ」
「けっこう長い間…とはいっても、時間がどのくらい経っているか分からないけどさ、まあ、それでも石と仲良くなるくらいにはここにいたから、温情で教えてくれたのさ。でも、俺ももともとはあなたと一緒。どうしてここにくることになったのかはよく覚えてない。気がついたらここにいた。だけど、なんとなく理由が分かったよ。それは多分、あなたに出会うため」
「僕に? どうして?」
「あなたと俺とがこうして出会ったことが証だろ?」
 言葉をなくした。ということは、この少年は、僕にとって意味がある人物だということだ。だとしたら、いったい何者なのか。
 少年はそんな僕の気持ちを知ってかしらずか、そのまま続けた。
「ずっとここん中にいて、石の思い出を見ていて気付いたのは、あなたのそれは、この石があなたとあなたの父親の強い気持ちに触れたから起きたんじゃないかなあということだ」
「僕と、父の…?」
「あなたのお父さんは、あなたやその奥さんへの優しい気持ちから。そして、あなたは逆に生への強い未練で。もういっこの夢の中でもそうだったけど、あなたって後悔してばかりだね」
 その言葉にぎくりとして肩が震えた。子供に皮肉を言われた怒りと、そうされてしまう自分への嘲りと。
「さすがに自覚はあるんだな。その未練、断ち切れた?」
「断ち切るなんて、そんなこと、簡単にできるはず、ない」
「そうなんだろうねえ」
 少年はくすくす笑った。
 が、その笑い声は先ほどからよりも随分遠い場所から響いてきているように思えた。それに、心なしか僕を見下ろしている少年の姿がだんだん遠ざかっているように見える。
「っと、もう時間切れだ。あなたはもうすぐ目覚める。このまま、あっちの世界に戻ることになるよ。未練があろうがなかろうが問答無用で」
「っ!」
「夢の時間は僅かしかない。ほら、もうすぐ『あなた』は目を覚ます」
「なあ、どうしたらいいんだ。どちらにしろ、このまま、僕は死ぬんだろう! 妻や娘に何も残せないまま!」
 僕にとっては狂おしいほどの叫びだった。しかし、少年は冷めた声でそんな僕を一蹴した。
「俺は何もできないよ。俺は神じゃないんだ。それに、子供をあてにするなんて恥ずかしくないの」
 ぎくりとする。本当にそうだ。これは自分自身の問題でしかないのに。それもこんな子供に頼るなんて、どうかしてる。
「それよりも、訊ねていいかな。俺、あなたのような後悔するとか未練があるってどういうことなのかよく分からないんだよね」
「え…」
「だって、俺、後悔や未練になるような思い出なんてないもの。気がついたらここにいたから」
 遠ざかる少年の顔に翳りが見えた気がした。その顔にひどく胸が摘まれた。
「君は、いったい誰なんだ」
 最初に口にした疑問と同じことを口にした。けれど、少年はやはり何も答えてはくれない。その答えは自分で見つけろと言わんばかりに。
「なんだっていいさ。ほら、そろそろ戻る頃合だ」
 素っ気ない言い方だったが、どこか諦めたような、そして何よりも僕を責めているかのような言い方だった。
 でも、いったい何を? この少年はいったい何だ? 僕の何を知っている? あの夢の先にはいったい何がある? どうして、石はあの夢を僕に見せた?
 けれど、その思いとは裏腹に輪郭はおぼろげになり、翠色の景色はどんどん薄れて行く。

「さようなら。もう会うこともないだろうね」

 そう言った少年の声は淋しそうだった。その声にいたたまれない何かを感じた。忘れてはいけない何か。思い出さなくてはいけないのに。
 あと少し、あと少しなんだ。もう少しで大切な何かを思い出せそうなのに。手を伸ばしかけて、何かを掴もうとする。
 しかし、その寸前に、無情にも目の前の扉は閉じられてしまった。



 翠色の深淵から意識が覚醒していく。
 目を開くとそこには見慣れた天井があった。突然の目覚めでまだ体と心がばらばらだった。体が覚醒するまで、しばらくぼんやりとその天井を眺めていた。
 大切な夢を見ていた気がするのだけど、もう思い出せない。
 しばらくしてから、昨日の夕方のこともあって体をゆっくりと起こすと、それは昨日とは比べ物にならないほど自由に動かせた。昨日までのあの状態は悪い夢だったのではないかと錯覚するほどであった。
 とにもかくにもベッドの端に座って、ぼんやりと先ほどの夢のことを考えた。確かに夢を見ていたはずなのに。それもとても大切な。残っているのは翠色の――
 そこまで考えて扉がノックされて、思考が中断した。返事をしないうちに、先に起きていたらしいリヤが扉の向こうから顔を出した。その手にはスープとパン。起き上がってはいなかったが、顔色が全然違うということに向こうも気付いたのだろう。昨日とは打って変わった様子にひどく驚いた顔をして立っていた。
「あなた、大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ」
 その不安を取り除くかのように、僕は微笑んだ。リヤはそれで少しは不安が除かれたのか、ほっとした表情を見せてくれた。
「あ、そうだわ。これ、朝食なのだけど…」
 どうしましょうと僕の目を見つめ返してくる。
「あっちで食べるよ。皆で食べたほうが美味しいからね」
 そう言って、僕はベッドの縁から立ち上がり、リヤの肩を抱いて寝室を出た。

 それから、家族三人で朝食を食べ、娘を学舎へと送り出した後に、僕は昨日した約束を果たすべく大通りへと向かった。リヤは僕の体のこと考えて、今日のデートをとりやめようと言ったのだが、僕は大丈夫だからとリヤよりも先に行って待つことにした。そうすれば、彼女はここに来ざるをえない。

 自宅から一緒に向かうでのはなく、大通りで待ち合わせてからのデートは、まるで恋人時代に戻ったかのようで、少し恥ずかしかった。妻からの提案ではなく、自分からの誘いのデートだと思うと殊更だ。しかし、やはり胸が騒いだのも事実ではあったが。
 リヤは少し経ってから歩いてやってきた。まだその服装は年若い女性のものであるが、今年所属しているコークショルグのAリーグに上がった彼女が、赤い衣を着て、誇らしく道を歩くのもきっと遠い未来のことではあるまい。
「お待たせ」
 昨日までの、今朝までの不安気な表情とはまるで別人のように、彼女は僕の前に立つと柔らかく微笑んだ。恐らく、僕のなんでもない様子に合わせてそうしてくれているのだろうけど、確かに瞳の中には隠しきれない悲しみがあるのだ。自分もリヤと同じような経験があるだけに、彼女がそう遠くないうちにその悲しみを瞳の奥だけではなく全身に背負ってしまうことになるのがひどく辛かった。
「じゃあ、行こうか」
 二人でどちらともなくアイシャ湖の方面へと歩き出した。アイシャ湖から北に折れるとフーコー温泉にたどり着く。夫婦間のデートは温泉に行くというのがプルトでは一般的だ。
 こうして恋人時代から続けて、リヤと連れ立って歩くのも何回目になるのか分からない。
 しかし、恋人同士から夫婦に、家族になって以来、二人の間の距離はより身近なものとなった。それは、逆にいえば恋人の男女が持つ甘い雰囲気とは別のものになったということだ。

 僕は、リヤと付き合う前に別の恋人がいた。デボラという僕よりも年上の女性だ。デボラはリヤとは正反対の気質の人で、気が強くプライドの高い女性だった。
 リヤとは彼女の学生の頃から交流はあったのだが、僕は妹のように思っていただけに、思いもよらないリヤの告白に僕は驚いた。
『あなたのことが好きです』
 震える手、強張った肩、そして何より、僕を見つめるリヤの黒い瞳は切なげに揺れていた。
 そして、僕はそんなリヤを放っておけなくて、彼女の手を取った。
 デボラと別れた一番のきっかけは、そんなふうにリヤが僕に告白してきたからだけど、我の強いデボラとの仲が冷めかけていたのも事実だった。
 彼女と付き合うまではそうは思わなかったけど、僕は振り回されるのが苦手だった。もともと自分から女性に対してどうこうしたいと強く思うわけではないかったら、そういう女性を許容できるかと思ったのだが、実際には人並みにプライドを持っていたし、主導権を握りたいタイプだったらしい。僕は大人しくはあったが、それほど包容力のあるタイプでもないし、許容範囲の広いタイプではなかったのだ。それに気付くと、我の強いデボラとの関係が窮屈なものになった。付き合い始める前、ミスプルトでもある彼女から誘われたことに少し有頂天になっていたのかもしれない。
 それに、僕は父が成人後に亡くなってから、ずっと一人だったから、誰かしら相手が欲しいのも確かだった。付き合う理由がそんな打算的なものだったから、もともと上手くいくはずはなかったのかもしれない。僕は答えをもう少し考えるべきだったのだ、彼女のためにも。
 そんなデボラだったから、別れ話をする時はひどく緊張した。彼女の気性の激しさはよく知っていたし、僕はどんな言葉で罵られてもどんなに手を出されても構わなかったが、その怒りが新しい恋人――妻に飛び火しするのを何より危惧していたのだ。全ては僕の責任だ。最初の手を伸ばしてきたのは妻でも、結局手をとったのは僕自身の意志だったから。
 しかし、デボラもさすがに大人の女性で、妻のことを悪くいうことはなかった。
『あんたみたいな男、あたしのほうから別れてやろうと思ってたわ』
 強気の彼女らしい捨て台詞を残して、彼女は僕と繋がっていた手を自分からきった。
 けれど、僕は気付いてしまったのだ。彼女が踵を返したその時、彼女の瞳が潤んでいたのを。自分から手を切ったように見せたのが、彼女の精一杯の強がりだということを。
 僕は彼女の姿が見えなくなるまでずっとその場から動けずにいた。いつものようにつかつかと早く歩く彼女の後ろ姿がひどく小さく見えた。
 しかし、リヤはデボラのことを思った以上に気にしていたようだ。結婚しようかという時になると、殊更だった。ずっと彼女は彼女で罪悪感を抱いていたのだ。でも、僕は気にしてはいけないと言った。
『これは僕自身のことだから、君が気にすることではないんだよ』
 そう言って、リヤを抱きしめた。彼女は少し和らいだようだった。
 デボラはその後、別の人と結婚した。相手は男やもめのジマナァム。なんの縁か彼はリヤの伯父に当たる人物で、僕なんかよりもよほどできた人物で、不器用な彼女を包み込む懐の大きな持ち主だということを僕は知っていたので、心からほっとした。
 苦い思い出も、いつかは色あせて、美しい思い出にかわる。今ではデボラとも普通に会話ができるようになった。

 そんなふうに昔のことを考えていると、自然と口が綻んだ。横を歩く妻を一瞥した後、恋人の時のように彼女に指を絡めると、妻はびくりとして、僕のほうを見上げてきた。
「こういうのも偶には良いだろう」
 なぜ僕がそうしたかという意味を感じ取ったのか、彼女は淡く微笑んだ。でも、やはり淋しげだった。

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