翠玉の鎮魂歌、7

 温泉で少しリヤと話した後、リヤは仕事へ行くからと言って先にそこを後にした。
 無理はしないで、早く家に帰ってね、と念を押されたが、少し一巡りするのもいいだろうと思って、温泉を出てから、大通りのほうへと向かって歩いた。

 何人かとすれ違い、挨拶を交わしながら歩く。大通りへ辿り行くと、南から北へ、そして北から南へかけていくたくさんの子供達の姿が視界の中に入ってきた。その中には娘の姿もあって、僕に気付いた娘は、笑って手を振ってきた。それに僕も振り返して、その姿が港のほうへと向かうのを見送った。本当なら学舎で勉強する時間なのに、とも思ったがその気持ちに反して口は綻んでいた。
「元気な子だ」
 自分が子供の頃は、どちらかというとこうして外で走り回ったりするよりも、家で勉強をしていることのほうが多かった。遊ぶよりも本を相手にしているほうが楽しい、そういう気質だったのだ。けれど、今こうして、子供達の楽しそうな様子を眺めていると少し勿体無いような気もしている。
 そういえば、唯一、家にこもりがちだった自分を強引に外に連れ出した友人がいたのを思い出した。下手糞なくせに歌うのがやたらと好きだった。豪快で、ちょっと偉ぶっててガキ大将だったけど、嫌いではなかった。彼ももう人の親だ。そこまで考えて、自分もそうだよな、と心の中で笑った。
「きゃっ」
「おっと」
 女の子が横からぶつかってきて、咄嗟に抱きかかえた。
 その少女は類稀な金色の髪と白い肌を持っていた。印象的で目を惹く子だ。
 だけど、記憶にない子だった。狭い国だから、どの子がどこの家の子かがあっという間に知れ渡るのだけど。頭をひねってみるが、少なくとも娘の友達ではない。知人の子供でもない。いったいどこの子なのだろう。
「大丈夫かい?」
「う、うん」
 少女は僕にぶつけた額をさすりながら、瞳をこちらに向けた。青く澄んだ瞳だった。
「ありがとう、おじさん」
 ぱっと僕から離れて、にっこりと笑う。その笑顔の中に、先ほども友人等の輪の真ん中にいて、いつも賑やかな娘――ミストの影を見た。顔そのものというわけでなく、雰囲気がよく似ている。この子も活発で人気者で、ミストと似たようなタイプなのかもしれない。
「いや。こちらもちょっとぼうっとしてたからね。でも、君もちゃんと前は見るようにね」
「うん、ごめんなさい。気をつけます」
 そう言って、元気に学舎のほうにかけていく少女を見送った。気のせいか走り方までミストに似ているように見えた。微笑ましい。
 更に通りを行ったりきたりして、忙しなく駆け巡っている子供達の様子に心温めながら、そろそろ戻るかと踵を返した時、「おじさんっ」と大きな声がして、思わず弾かれたように振り返った。
 その主を探してみると、神殿前へと繋がる階段の真ん中辺りで、先ほどの少女がこっちを向いて立っていた。
「おじさんに私のお兄ちゃんのこと、お話したいと思います」
 大きな声をあげているのに、僕以外の周りの人は少女のほうを見向きもしていない。その様子をおかしいと思いながら、首を傾げた。
「僕に言ってるのかい?」
 少女はそうだよ、と嬉しそうに頷いた。
「お兄ちゃんは、強がってるけど、本当はすっごく内気なの。臆病なの。おじさんに覚えてないって言われるのが凄く怖いの。だから自分のことを聞けないの」
 え――?
「私のことは心配しないで。でも、お兄ちゃんはあそこから動けないでいるから、手助けしてあげてほしいの」
 違う。にっこりと笑う少女の顔は、ミストにもよく似ていたが、それよりももっと――
 少女は最後に大きく手を振った。
「私のこと、忘れないでね。ばいばい」


 おとうさん――


 少女が声に出さずに口の動きだけで発した言葉が、何かを刺激した。

 もう一人の娘は僕をパパと呼ぶから、そう呼ばれるのは、温かくて、懐かしくて、そして、少しくすぐったい。
 夢の中で生活していたもう一人の自分。確かにあの子が言っていたようにそれは夢じゃなかった。彼らはそこにあったのだ。

 どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。

 ああ。

 …思い出した。





 抜け落ちていたものを拾いにいかなければいかない。
 もう、後悔したくはない。何かを置きっぱなしにして、このまま最期を迎えるわけにはいかない。
 僕は走った。がむしゃらに走った。途中、誰かとぶつかったが、それが誰だったとかそんなことを気にしていられなかった。
 いつの間にか息切れはするし、心臓が苦しかった。酸素が頭まで回らず、頭痛もする。僕はそうなるまで自分が死の淵にあるということを忘れていた。
 走っていたとしてもあの場所にいけるか分からない。胸はひたすらに痛いし、吐き気もする。本当なら走っていられるような状態ではない。それでも、走らずにはいられなかった。
 会わなければ。あの子に会わなければ。
 成す術がないなんてそんなこと考えている場合じゃない。
 会わなければいけない。いや、会いたいんだ。
 あの子に会いたい!

「レグルス…、サプラ…」

 朦朧としかけた頭で双子達の名前を呼んだ。
 すると同時にあの翠色の景色が目の前に現われた。あの時は霧に隠れて見えなかった少年の顔と輪郭が、鮮やかに浮かび上がった。
 ああ、やはりこの子だった。
 ぜいぜいと息を吐きながらも、この間とは違い僕はそこに立っていた。
 突然の僕の出現に呆然と佇んでいる少年に一歩、また一歩と近づいていく。少年は、驚きのあまり身じろぎもできないようだった。
 どうして忘れていたのだろう。忘れてなどいけなかったのに。僕の子供なのに。
「ごめんな、レグルス」
 少年の名前を自分で確認するように呼んだ。更に一歩彼に近づくと彼は少し怯えてあとずさった。
「なんで、謝るのさ」
 僕を責めるように言いはなった。ぎゅっと唇を噛んで、拳を握り締める様が痛々しかった。
「かっこ悪いところ見せちゃったから。ごめんな」
 このくらいの子供にとって親は強くて温かくて、安らげる存在であるものだ。それなのに、あんなふうに弱い部分を見せてしまうなんて、申し訳ない気分だった。
「なんで、戻ってきたの」
 小さな囁きだったが、表情は先ほどと比べて、ほんの少しだけ穏やかなものに変わっているように見えた。
「お前をこんなところにおいておくわけにはいかないよ」
 少年はこの間の饒舌が嘘であるように何も答えなかった。
 そうだ、もともとこの子はこういう子だった。大人びているように見えるが、本当は内気な子だった。人見知りもするし、遠慮ばかりする子だった。
 僕がこうしてここにやってこられたのはこの子という未練をここに残しているから。そんな気がした。ここは願いや祈りやそういった思いが強く作用する世界のようだから。
 人の思いで成長していく石。
 それが、本当か嘘かは分からない。けど、今、レグルスと僕がここにいることだけは事実。なんだっていい。レグルスをここから連れだなければ、彼はきっと動き出せないのだ。
 懐にあるはずの石を握りしめてから、僕はレグルスに言った。
「お前も、僕と一緒にこっちの世界にこれないか?」
 レグルスの黒い瞳が微かに見開かれる。
「お前が、今ここにいて僕と出会ったのは、きっとそれはお前があの場所で終わるのではなくて、お前が生きる場所が他にあるからだと思うんだ」
 少年の瞳が更に見開かれた。
「だから、一緒に行こう」
「無理だ」
 何かを諦めるように首を振った。
「どうして? こんな奇跡が起こったんだ。お前がこっちにくることだってきっと不可能じゃない」
「…無理だよ」
 けれど、今度レグルスが言い放った声の中にあったそれは、諦めではなく不安だった。
 葛藤しているのだろうと思う。きっとレグルスもわけがわからず不安だったのだ。いきなりこんなところにやってきて、僕が来るまでずっと一人きりで過ごして、そして、この不思議な石と通して父親の弱っていく姿を眺めているしかなかった。
 それが悲しくて、淋しくて、あの歌を口ずさみながら僕をずっと呼んでいたのかもしれない。
 どうか気付いて、と。
 こんな思いを子供にさせただなんて、身が張り裂けそうな思いだった。けれど、だからこそ、僕はこの子を連れて行かなくてはいけないと思ったのだ。
「お前に守ってもらいたいんだよ」
「守る?」
「リヤとミストを」
 強い眼差しでレグルスを見つめる。レグルスが少し驚いた風を見せた。
「…なんか、あなた、人が変わったみたいだな」
「守るもののためならどれだけだって強くなれるよ。リヤやミストも守らなくちゃいけない。でも、今、ここで守らなくちゃいけないのはお前だよ」
 少年は目を大きく見開いた。唇が震えているのが分かった。リヤによく似た黒い瞳が何かを必死に訴えかけていた。
「お前をここに置いていけない。ただ、向こうにいっても、これから一緒にいてやることは多分できないけど」
 びくりと震えた小さな肩を僕は優しく撫でた。
「でも、いっしょに行こう」
「ひどいこと言うよな。行ったって俺の居場所なんてないよ。それに、あれは母さんじゃない。同じであっても別人だろ」
「同じだよ」
 きっぱりと言う。
「同じお前の母親だよ。彼女だから僕は愛したし、一緒に生きようと思ったんだ。だから、リヤもきっとお前のことに気付くよ」
「そんなわけないっ。なんの根拠もないのに、期待なんてさせるなよ。大体、あなたも最初、俺を分かってはくれなかっただろ!」
 今までにない強い叫びだった。きっとそれが本音だろう。ここに初めてやってきた時、きっと僕が気づいてくれると思っていただろうに、僕はそれを裏切った。
 ごめんな、レグルス、本当にごめん。謝ることしか僕にはできない。
 リヤとそっくりの黒い瞳が揺れるを見て、僕はたまらずレグルスの体を抱きしめた。一瞬、彼はびくりと体を強張らせたが、抗わなかった。
「ごめん。ごめんな。それは言い訳できない。でも」
 抱きしめていた腕を解いて、僕は強く真っ直ぐにレグルスを見据えた。
「不安よりも喜びを感じてほしい。諦めるよりも望んで欲しい。ここで立ち止まるのではなくて、僕はお前に生きて欲しいんだ」
「生きる…」
 お父さん、今ならとてもよく分かる。あなたがあの時、抱きしめた理由も。あなたの願いも。あなたがどれだけのものを僕にくれたのかも。僕もこの子にそれをあげたい。それを贖罪にするのは少し傲慢かもしれないけど、お父さん、もう一人の僕をどうか許してほしい。
「一緒に行こう。お前が向こうにたどり着くまで、絶対にお前を守る。ちゃんと送り届けてやるから」
 レグルスの体を離して、その前に手を差し出した。レグルスは僕の手を眺めて、僕の瞳を眺めて、目を伏せて、少しだけ手を伸ばしかけて引っ込めた。
 それから、自分の手をぎゅっと握り締めて、僕を強く見つめる。
 黒い瞳はまだ揺らいでいたけれど、確かにレグルスは何かを確認するように頷いて、おずおずと手を伸ばした。
 その手をしっかり握り返すと、レグルスは小さな声で呟いた。

「お父さん」

 その響きを噛み締めながら、僕は更に強く握った。そして、もう二度と味わえないであろう、僕を頼ってくる手の温もりを更にかみ締めた。
 恐らく、これからのレグルスの成長を見ることはできないだろう。
 ミストもそうだ。そして、どこからかやってきて僕を助けてくれたあの金髪の娘サプラもそうだ。

 でも、この子達のこれからの未来は、自分が生きた証になるのかもしれない。
 この子の未来が可能性に満ちた素晴らしいものであるように。
 祈ろう。

 暫く歩いてから、握っていた手が離れていった。
 横を見るとレグルスがもう大丈夫、と小さく笑った。


 そして、僕は翠色の夢から覚めた。





「パパ、パパあ!」
 寝かされているベッドの脇で黒い髪のもう一人の娘が泣いていた。その向こう側には最愛の妻の姿。
「あなた…」
 涙をこぼさないように懸命にこらえている姿は、逆に痛々しい。
 そんな顔をさせてごめん。置いていかれるのは何にも増して辛いことを僕は知っている。
「リヤ、ミスト」
 二人の名前をなんとか言葉に出して、力の入らない手を伸ばした。リヤがその手に気付き、握り返してくれた。温かい指先に心が満たされていく。
「これは」
 リヤが僕の手の中にあったものに気付いたのだろう。それは、あの翠色の石だった。僕はリヤの目を見て、軽く頷いた。それを貰ってほしいと目で訴える。
「そんな、駄目よ。受け取れないわ。しっかりして、あなた。まだ駄目よ。早すぎるじゃない。こんな、こんな」
 我慢していたリヤの頬にも涙が溢れていた。
 ごめんな。
 手は動かずその涙を拭ってやることができない。僕は心の中でしか謝ることしかできない。
 恐らく、リヤはいつか再び誰かと恋をして、結婚するのだろう。けれど、それでいい。僕のことを縛り付けたくないから、そっちのほうがいい。君が幸せになれるのなら、ただそれだけで。
 僕の、できることは全てやった。
 きっと石は僕を哀れんで見せてくれたのだ。もう一つの夢。もう一人の自分。
 いつか、一人の少年が君の元へと訪れるだろう。
 リヤ、どうかあの子に気付いてやって欲しい。あの子は遠慮がちだから、どうか温かく迎え入れてやってほしい。
 瞳を閉じると、きっと遠くない未来の様子が思い浮かんだ。

「あなた…?」

 遠くでリヤの声がする。


 置いていってごめん。
 でも、あれほどあった未練も後悔も、今はない。感謝と、嬉しさと、喜びと、そういう気持ちが次から次へと溢れてくる。
 君と出会えて良かった。
 ありがとう――




 さあ、祈りましょう。
 さあ、踊りましょう。


 これは始まりの歌。
 二つの夢の重なる歌。
 魂は、現から夢へと戻る。
 魂は、夢から現へと戻る。

 さあ、私達は歌いましょう。
 光は弾け、歌い、そして続く。

 これは、翠色の鎮魂歌。

 さあ、おやすみなさい。お眠りなさい。

 これは、あなたの休息の場所。

 たくさんの光に抱かれて、おやすみなさい。


 お父さん――

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